私の解釈書兼感想文

本や映画などでかんじたこと、自分の解釈などを記録するためブログを始めました。

私はコミュ症(コミュニケーション恐怖症)である

タイトルの通り私は己をコミュ症だと自負している。

 

 

ただし、いわゆるコミュ障、コミュニケーション障害とは違うとも理解している。

 

「その違いはなんなの?」

 

 

お答えしよう。

 

私ももう25歳なので、今までいろんな人間を見てきた。

 

だから、障害といえるレベルのコミュニケーション力も知っている。

 

自分は、そうではない。しかし、ある意味では極端な話自分の意志によってそういった行動、態度をとっている分、コミュ障よりもたちが悪い。

 

 

今回は、自分をコミュニケーション恐怖症と定義づけたワケと、客観的な目線でそれを見つめ、改善のためのきっかけのようなものにしてみようと思った。

 

では、さっそくここから本題に入ることにする

 

 

●で、コミュニケーション恐怖症ってどゆこと??●

 

 

現在私はほとんどの人と円滑なコミュニケーションを取ることが非常に難しい。具体的には

 

・大きな声で遠くから呼べない

・目を見て話せない

・自分から話を振れない

 

なぜだ?

 

 

それらすべて、根本は「恐怖」にあると思っている。

 

・遠くから声をかけるなんて失礼じゃなかろうか

・自分に話しかけられても迷惑と思われるんじゃなかろうか

 

 

そんな気持ちが先に立っている。

 

 

これがなかなか、意識したり、新しい環境で生まれ変わろうとしてもなかなか変えられないものなのだ。

 

私自身とても悩んでいることなので、最近その原因についてあれこれと考えた。そして、ある結論、理由に行きついた。

 

 

結局は

 

 

自分が可愛い

 

のである。

 

 

・声をかけて、無視されたらどうしよう

・嫌がられたらどうしよう

・迷惑だったりして

 

 

これらは全て、結果的に自分が嫌な思いをすることが無いように、無いように、という逃避的な考え方だ。相手がどう思おうと、自分がコミュニケーションを図ろうとしてないことだけが事実なのだ。

 

コミュニケーションに限らず、何事においても見返りを望みすぎるのは良くないと思う。ギブアンドギブ、そういう気持ちは結構大切だ。

 

 

確かに、中には変な人もいる。存在自体が「嫌味そのもの」というような人も極まれにいる。しかし、限りなく少数派だ。

 

 

実際は、10人いたら9人は「普通」なのだ。

 

 

普通とはどういうことかというと、普通にコミュニケーションしてくれる、できる相手だということだ。おびえてるのは自分だけで、怯えてコミュニケーションから逃避しているうちに、皮肉にも自分自身が、前述した10分の1のタイプ(変な人)に属してしまうことになるのだ。

 

 

そうなってしまうと、どんどん泥沼にはまっていく。

 

いかにまともな人たちだと言えど、いや、まともだからこそ、そういった「異端」に対して、接し方が分からなくなってしまう。悩ませてしまうのだ。

 

本当のコミュ障ならば、相手に気を使わせることもは悩みの種にすらならないかもしれない。そもそも気が付かないから。

 

 

しかし、コミュニケーション恐怖症の私は、本当は寂しがり屋で、構ってもらいたい。助けてもらいたい。休憩時間に雑談したい。気軽に会話しながら仕事をしたい。

 

そういう思いが本心だから、一度相手をされなくなると、逆に敵意を持ってしまう。

 

 

・なんでうまくやれないんだろう!!

 

そういった、自分に対する怒りだけならまだいいが、

 

・俺以外だけで楽しくやりやがって!!

・なんであんな奴が人気なんだ!?

・言いたいことあんならはっきり言えよ!!

 

という、理不尽な怒りの感情が芽生える。

 

 

 

これはあくまで私の場合の話だが。

 

 

そして、そういったやるせなさ、ふがいなさ、悔しさ、怒りなどを、仕事のデキで補おうと願う。

 

なぜ「補う」、とはっきり言わず「願う」なのかというと、決して自分はお世辞にも仕事がデキる人間ではないからだ。はっきりいって効率は悪いほうだと思う。

 

にもかかわらず、自分の人間性をそういったもので補いたいと思うから、さらに独りよがりで一匹狼のような態度になってしまう。協調性に欠け、作業も非効率的になってしまうこともざらだ。

 

そうなると、職務上のコミュニケーションさえおろそかになる。

 

 

こうして私は、どの職場でも浮いた存在になってしまうのだ。直したい、直したい、と思ってはいるのだが、なぜかどこでもそうなってしまうのだ。ということはやはり、問題は私ということになる。だからこのままではいかんのだ。

 

 

というか、そもそも最初に言った「恐怖心」というものは、いったいいつからあったのか?生まれたころからあったのか?潜在的な性格なのか?

 

答えはノーだ。というのも、

 

 

それをしっかり考えて過去を思い返してみたら、思い当たることがあったのだ。

 

 

そもそも私は、中学生くらいまではコミュニケーションに不自由を感じたことは無かった。むしろおちゃらけた性格で、人気者の部類だった(と思う)。

 

 

とはいえ、学校がそもそもド田舎の超小規模校だった、ということもあり、みんながみんな保育園からの顔見知りで、大げさに言えば兄弟のように過ごしたからだ。いじめの類もまずない。私なんて、いじめなんてものは都市伝説だと思っていたくらいだ。

 

 

だからコミュニケーションに悩む理由なんて、あるわけがなかった。

 

また、自分は性格的に、今でも「格下」と認めている相手に対しては難なくコミュニケーションを図ることができる。どういうことかというと、「部活の後輩」「新しく入った仕事先の後輩」そういう、はっきりと「自分が接してもいい・接することが相手のためになる」と思える人に対しては、和やかに接することができる。

 

いや、本当は、「相手が自分に親しみを持っていると知っている(思っている)」という相手という感じだろうか。

 

とにかく、自分が自信をもって心から「なめてる」相手に対しては、堂々と自分を出すことができたというわけだ。

 

 

では、結局恐怖心はいつ芽生えたの?というと

 

 

「小学校6年生の時の他校とのイベント」だ。

 

 

多分これが心になかなか消えない暗い根を下ろしたのだと思う。

 

 

どういうものだったかというと、町内の4~5校くらいから各2~三名が参加し、隣の県の学校の生徒とふれあい交流しようという2泊三日くらいの、町内で毎年開催されている行事だ。

 

このとき、自分は初めて「身分が対等の見知らぬ者たち」と接したのだ。おおげさだと思われるかもしれないが、それまで閉鎖的でアットホームな世界で生きてきて、ひょろがりでちびでもクラスでお山の大将ができていた自分にとっては、それはとても異質な状況だった。

 

 

まず、小学生というものはまだ子供であり、分別がなく気を使うということがない。平気で仲間外れをしたり、それを輪になって楽しんだり、だれも止めようとしないものだ。

 

 

 

 

自分は、温かい自分の城(学校)ではリーダー、大将のような存在だったから、性格的に媚びたり下手に出たりするのを拒んでいた。だから少々、ワイワイガヤガヤと群れあって騒ぐ他校の生徒に対して「お前らが俺と仲良くする努力をしろ」という、斜め上からの目線で俯瞰していた(ガリでチビ)。

 

そんなんで、どんどん仲良くなっていく他校の生徒とは対象的に、自分は孤立していった。

 

それでも、性格は王様なので、声を出せば皆がひれ伏す(おおげさにたとえたが、要は母校のような、自分を中心にした世界になる)と思っていた。

 

 

しかし、当然そんなことは無い。

 

現実は、自分はカースト最下位になっていたのだ。みんながみんな、私を相手にしなかった。

 

体育館での球技遊びに、頼んでも参加させてくれない。食事の時間に、おかわりの盛り付けをパシられる。販売機で買ったジュースを、執拗に一口くれとせがまれ最終的に脅されるなど。その他にもむかつくことはあったとは思うが、鮮明には覚えていない。ただ、はっきりと感じていたのは

 

 

生まれて初めて感じる絶望的な疎外感

 

だった。

 

結局これが、「話しかけてもうまくやれないかもしれない」

「返事をしてもらえないかもしれない」「自分に価値がないのだから」

 

という、恐怖の根っこになっていると思う。

 

 

 

●で、解決法はあるのか?●

 

 

私は思う。

恐怖体験を上書きできるものは成功体験しかないと。

 

 

こういった、恐怖心は頭でうんうん考えていても解決はないと思う。

 

やはり、誰かとのコミュニケーションを楽しみ、会話を、反応を、相手の笑顔を、自分のはつらつさを、喜び楽しみにする、実感を感じないといけない。

 

 

そのためには、心を変える必要はないのだ。

 

というか、心はおそらく変えようと思って変えられるものではなく、いつだって行動のあとに起こるものだと思う。

 

だから、「やる」ことだ。

 

 

・はきはき挨拶をする

・聞く、呼ぶ、伝える

・声に出して笑う

・はっきりと声に出す

 

できることはたくさんある。

 

そして、結果的にうまくいかなかったとしても、その時はその時だと諦める。

 

無視されたら、そういう人なんだと諦める。(とはいえ、あいさつすることは止めない)。話が続かなかったら、そういう人なんだと諦める(ただ、言うことはしっかり言う)

 

見返りを求めないことだ。自分からやることだ。

 

結果からいちいち学習することだ。一度の失敗でくよくよしないことだ。

 

 

それしかない!!

 

大丈夫、自分が思っているほど、自分のようなコミュニケーション恐怖症の人は周りにはいない!!

 

良い人、まともな人のほうが、圧倒的に多いのだから!!!

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

映画「クレヨンしんちゃん暗黒タマタマ大追跡」を観た

昨日しんちゃんの映画「暗黒タマタマ」を観た。

 

 

私はクレしん映画が大好きだ。

 

 

どうでもいい話だが小さなころから漫画クレしんで育ったようなもので、その思い入れはわりかし強いほうだと自負している。

 

さて、この暗黒タマタマについての感想だが

 

 

「時代を感じる」というものと「時代を越えている」

 

という、矛盾じみた二つの印象を受けた。

 

 

最近ネットだったかなんかで、筒井康隆についてのコメントで「ナンセンスな笑い」という言葉を知った。

 

この作品からは、まさにそんな「ナンセンスな笑い」を感じた。

 

 

じゃあ、いったいそのナンセンスな笑いというのは、具体的にどんなもんなんや?

 

 

例えば

 

・オカマの隠れ家の便器の下り

・温泉でのみさえの体重の下り

・新幹線のシーン

・ラストバトルの、時間経過の下り

・マンホールみたいなのから頭を出したよねが踏まれるシーン

 

 

などなど、その他にもたくさんある。(特に後半の勢いはすごい)

 

 

そして、なんといってもラストのしょうもなさ。

 

 

はっきり言って、これは観る人を選ぶ映画なのだと思う。

 

映画レビューではやたらと高評価が目立つが、果たして本当にそんなに多くの好評を得る優れた作品かといえば、うんとは言えない。

 

観る人によっては非常に退屈なものだろうと思う。

 

 

この映画を観ている時、隣には成人した妹がいた。

妹は、どうしても退屈さを隠し切れなかった。

 

ぶっちゃけ、私も退屈だった。

 

二人で見るということは、価値観を共有しているようなもので、誰にでもわかる笑いや感動がないと、盛り上がり場所が分からず、どんよりした空気になる。

 

 

私も、事実途中まで、この映画は、笑いのセンスが古い、という印象で観ていた。

べただなあ、と退屈していた。

 

 

しかし、中盤で妹が退屈のあまり席を外してからというもの(具体的は、よねとラスボスの対決の辺り)、なんというか劇的に魅力的な作品に映ってきた。

 

実際その辺からが本番だというだけのことかもしれないが。

 

確かに面白く感じたのである。

 

これは、うまく言葉にできない。

 

 

やはり、「ナンセンスな笑い」ということなんでないか。

 

 

 

 

なぜ私は悩むのか

さて、私は悩んでいます。

 

その悩みとは?

 

ずばり、私はなぜ悩むのか、という疑問です。

 

仕事もなかなか続かないダメ人間の私は、一般的な人ならば感じもしないような悩みを数多く抱いています。

 

そういったものが、このブログでもぽつぽつと語られていくと思います。

 

 

まず第一に、なぜこんな物書きをしているのか。

 

それは、私という存在をネットを通して外の世界に誇示したいからに他なりません。

 

 

そうです、私は、有名になりたいのです。

 

有名になって、お金を稼ぎたいのです。

 

ここ数年で、私の人間性はかなり歪んでしまったと自負しております。

 

なぜ?

 

 

私は、YouTuberに嫉妬している!!

 

 

YouTuberが・・・羨ましいのである!!!

 

2016年頃からだろうか、YouTuberの 影響力、社会的地位の向上は目を見張るものがある!

 

その影響力、というか、広がり、というか

 

 

例えば視聴回数、チャンネル登録者数だけを見ても、今やその数字は過去の常識とは比べ物にならないような状況になっている!!!一日に、数十万!?百万!?

 

トップならそんなもんだよね~・・・っておい!!!これは異常だ!!!今の視聴者にはそれが分からんのです!!!

 

 

個人個人がサムネイルに顔をでかでかと誇示し、個人個人がファンを持つ。さらにそのファン同士が非常に密接であるという奇妙なマーケットが出来上がっている!!!

 

 

 

あの人を見ている人はこの人も見ている、そしてあっちも見ているこっちも見ている。

 

 

視聴者が網のようにつながっているから、その巨大なマーケットは今日も支えられている。

 

 

なんという安心感!!!そして、YouTubeがなければ陽の目を浴びることなどなかったであろう室内の乙女も、ゲーマーもハゲやデブも、視聴者の目、声という華々しい喝采を浴び、そして収入さえもゲットできる!!!

 

 

なんて羨ましい!!!

 

 

 

で、なぜ私はそんなことに嫉妬するのか?

 

なぜ悩むのか?

 

考えてみた。

 

 

一つには、彼ら成功者の苦労や辛さを知らないということ。

 

また、自分自身が充実した私生活を送れていないから

 

 

ざっくりと考えると、この二つが挙がった。

 

 

そして恐ろしいのは、妬むだけ妬んで自分は行動を起こしていないことである。

 

 

ここ数年、自分はずいぶんと卑屈になった。

 

 

その理由は、YouTuberへの僻みや羨望によるものもあるが、けしてそれだけではない。

 

打ち込むものがない自分、趣味のない自分、友達がいない自分、彼女がいない自分。

 

それと真逆の周囲のパーリーピーポー

 

 

 

 

つまり

 

 

比較

 

 

である

 

私はことあるごとに比較するようになってしまったのであります。

 

 

しかし、考えましたが

 

 

この世界は、そもそも競争の世界であります。

 

比較して悩んでしまうのも、無理はありません。

 

つまり、悩むというのは自然なことです。

 

 

こんな卑屈な自分が、嫌だなあと思って夜も眠れない日もあります。

 

 

でも、それでいいのかもしれません。

 

 

なぜなら、自分が悩むというその事象は、他との比較であり、それはこの世に生まれ落ちたその瞬間に決定していたことなのであるから。

 

 

つまりだ、嫉妬は自然である。

 

悩みは自然である。

 

と、言いたいのであります。さようなら。